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先日、“熊鍋・猪鍋・鹿刺”等所謂“獣鍋”が堪能出来るひなびた中山間地へとトランジット ここでも、武田群勢の戦国時代から、湯治とあり嘗ては賑わい風情を呈していたようだ
私は水源地からストーンと勢いよく流れて落ちる水しぶきを被りながら、神秘の瞑想に入ってしまう 常にこの瞑想タイムは、「ダライ・ラマ科学への旅」に書かれてあるように
“まず、観察対象(滝とか)に迫り、本質を見抜くために出来るだけ鋭い問題意識を持って観察をはじめる そして観察によって洞察が得られたら、そのまま出来るだけ長い間、心をその洞察された結果に集中させる”八世紀の印高僧カマラシーラ〈蓮華戒〉
仏教には、伝統的な瞑想のその方法が上記の他にも数多く有ります
自分と云うミカケとされた顕在での存在を観察しながら、大きな対象であるわれわれが、生き続けるためにはナニを必要としているのか 突き詰めれば、存在させて確認がとれたりと云う事態、奇跡的なものだと云う驚きでしかない ちょっと何かあれば、油断していたりなんやかんやと、やってしまっていたら、脆くも墓場逝きだ
(--;) と云う事が、いたくも深く理解するのが、人間なのではないだろうか
ここでは、問題意識が泉の如くに湧き出してしまうので、“必要な母”は、それらの難解なる珍問さんや妙事を解かなけれならなく、やたらと忙しく、常に手のひらから、脂汗が滲み出てきてしまうほどである(^○^;) ただこうした弱みを探られないようなトレーニングもしたり、銅鐸の演奏をしたり… 不可解とされる潜在意識下
に潜んでしまう この方が、冬眠中の爬虫類ながらに楽なのだ\(^○^)/ どうも、刺激ブツに過剰反応が突出してしまい過ぎるから、厄介だ(^○^;) 何かしら、乳児だとかが、その辺りに放置させられたままとされた感覚があり、それでも生かされていたのかなぁと、自分ながら微妙に驚く話しであったりもする(^○^ゞ
流れる水量が、こんなバカみたいに減ってしまうなんて、恐らくわれわれのご先祖さまは、知らなかったんだ 水嵩は、常に増加だけだと、そればかりだ
‘未來に向かっていくほど干上がっていくこの大地’に歯止めを賭けたいだけだ ただ理解出来る人間が、少ないのも事実は物語ってしまう(--;)
そこで、
誰もにわかるカタチで、お話しタッチに伝える\(^○^)/ ただ、難を云えば、色々にだ↓ 試行錯誤中…は続く…